学ぶのが億劫だとか、
新たに学ぶフィールドを増やしたいとか、
何かを学ぶことが必要な人に向けた視点だ。
1.なぜ/何のために学ぶかを明確にする
もし学ぶ理由として、
「悔しいから」という発想を持っていたら、とても立派だ。
「常識のあり方が間違っていると思えたから」も立派だ。
「厳しくも楽しいから」という理由であれば、何も言うことはない。
このような主観的・感情的で強烈な思い込みやひっかかりがなければ、
面倒くさがりで疑り深い人間の性格というのは、なかなか実行に移さない。
だからこそ、学ぶ理由を徹底して主観で明らかにする必要がある。
2.学ぶ理由としての1.を捻じ曲げる
いっぽう、上記のような極端な主観を持っている人はそう多くない。
大多数が「試験対策が必要だから」「収入を上げたいから」
「頭がいい/教養があると思われたいから」
「もっと専門分野を深めてた/シナジーを出しいから」
という、ありきたりで客観的な理由のみだろう。
これでは飽きが来てしまうし、他人との競争という不要な視点に巻き込まれる。
他人との競争を出してしまうと、学び方を自分にフィットさせる前に、
他人が作った仕組みに自分をフィットさせようとしてしまうことになる。
論理的で客観的な理由ばかりでは、どうしてもこのようなつらさを排除できない。
これだけだと、専門家や教育産業のロジックに即した「お客さん」で止まってしまう。
ありきたりな視点を捻じ曲るるには、
「自分なりの切実な背景を探る(危機的であればあるほど良い)」
「背景に即し、理屈ではなく気分のよさを優先させる」
「押し切った気分の良さから、改めて理屈や論理を立てる」
「迷ったら、再び切実な背景を探る」
…
というサイクルが大切である。
ちなみに自分の場合はというと、
「理由を考えず、勉強させられている多数の人がつまらなく見えたから」
「つまらなさそうな大多数のスキを突いて、面白さが出ると思ったから」
「スキを突いて面白くすることで、自分にとってラクで面白い空間を作れると思ったから」
という理由が、捻じ曲げて高めたモチベーションの例だ。
もっとも、切実でかつ危機的な状況から始まって、
思い切り捻じ曲げているからこそ、必ずしも堂々と公言する必要はない。
自分で自分を「バカじゃないのか。でも面白い」と即答できるレベルが目安だ。
この自己内対話を、他人に見せることでモチベーションを下げるメリットはどこにもない。
極端な主観を客観的に積み上げて、
恥ずかしくない形で誰かに提示し理解してもらうためにこそ、
学習が存在すると言っていいんだよね。
だからこそ、社会的地位の高低など関係なく、学ぶ理由だけは、
こっそりベースで堂々と大恥をかくことを徹底的に自分に許してあげよう。
確実に、清々しい気分で居続けられる。