各人のセンスというのは、そのまま品質に反映してしまう。
センスがなく、自分の知見の品質が低いと嘆くなら、
客観的に使える物事をひたすら探り、
借りて組み合わせてしまうくらいでちょうどいい。
借りて組み合わせてしまうくらいでちょうどいい。
品質管理の方法は客観的に存在している。
一般的には、ISO9000:2015 – 3.6.2なんかが参考に出来るだろう。
シンプルに言えば、品質とは「要求水準を満たすこと」だ。
要求水準があるということは、何らかの客観的事実に基づいて、
品質の測定ができるという仕組みが用意される。
つまり、品質の裏には客観的に理解が可能な基準がある。
基準から外れているか、基準に適合しているかを、
判断可能な仕組みを確保するのである。
これは何も、ISOのようなテクニカルな知識に限った話ではない。
例えば、どんなに非道な暴君であっても、
普段喋り読み書きする言語の「文法」という法からは逃れられない。
扱える文法の品質がめちゃめちゃに低い状態では、
コミュニケーションもままならない。
普段我々が使っている言語でさえ、見聞きしたり読んだりして、
少しずつ学び、結果的に沢山の他人から借りた知識に過ぎないのだ。
少しずつ学び、結果的に沢山の他人から借りた知識に過ぎないのだ。
シンプルに言えば、知識を借りて真似をしていくだけで、言語は鍛えられるのだ。
一方で周囲を見回すと、大多数の人は、
思いのほか知識を借りることも探り当てることも、
それどころか本を読むこともしていない。
思いのほか知識を借りることも探り当てることも、
それどころか本を読むこともしていない。
まず突くべきは、この格差だ。
出来る限り自分にとって、理想的な真似のパターンを作ってしまう。
このとき、どんな物事のセンスも品質も、
ひとつの言語として借用可能だと捉え直せばいい。
楽器を演奏する際の音の出し方を、レッスンや動画の真似を経て、
自分なりに言語化すれば、上手い人のセンスを自分のものにできるのと同じだ。
知識や経験を探り当てて活用し、言語化して知性に転換するだけで、
抜きん出たセンスも品質も得ることができるんだよね。