最近、出版社との企画を楽しく進めている。
先方の企画へのアプローチを見ていると、
さすがプロの仕事だとその原理原則に心底唸らされると同時に、
原理原則のない人は思っているより不自由だと気付かされる。
というのも、
話を聞いていると、
書き手の方々に相当な実力があるにも関わらず、
その実力が本業で出しきれているとは、
にわかに言い難いケースが多々あるためだ。
50代を超えてサラリーマンとして組織のトップになり、
それなりに出世したと言えるにも関わらず、
そして出版した本の内容が私の目から見て秀逸だと即答できるにも関わらず、
「情報の読み手や受け手目線で動く」
という原理原則が平生からできていないのである。
テクニカルな情報が用意されていればいいというのは、
読むにはちょっと厳しいところがある。
特に企業の組織内で活用できる知見を、
世の中に広げていく活動をしているというのに、
素人目にはよくわからないまま、
つまり原理原則としてシンプルに言い切れないまま、
難しいことを難しいままに表現してしまっているのだ。
難しく見えることを、
事例交えてシンプルに言い換えられるからこそ、
プロはプロとして成り立つ。
これは論文やレポートの書き方と共通している。
それだけ特異な学びの蓄積が突出していて、
シンプルな理解ができていることがプロだからだ。
特に統計学を使いこなすとき、
この視点が全てだと気付かされていた。
難しいことを難しいまま話してしまうのは、
ストレートに言うと、
その本人が腹落ちしていないのだ。
特に新卒就活と年功序列による日本のサラリーマン組織に長く所属しすぎると、
考え方の原理原則を大事にする発想よりも、
組織人としての発想が優先されてしまい、
難しいことをシンプルに言い切るより、
難しいことをついうっかり断片的な寄せ集めとして、
説教臭く言ってしまうのである。
日本人について「プリンシプルがない」と喝破したのは白洲次郎だ。
プリンシプルとは、原理原則のことだ。
共通点を共通点だとタグ付けするという発想が重要な、
数理統計学やデータ分析を仕事とし、
毎日書いてインタビューした・されてきた自分としては、
「プリンシプルがない」という言葉は、
組織内での活躍が優先されてしまい、
個人が個人として活躍する文化と真逆だと頷いてしまう。
個人が個人として活躍するからこそ、
その人となりを含めた洞察が、
独自の知見として世の中を切り開くのである。
現実解。
原理原則が先、仕事は後付け、
そんなスタンスのほうが、
実は自由かつ前向きに仕事で活躍できる。
boxcox.net、遠藤武。