「民主主義や雇用など、社会や制度の疲弊を指摘する人が多いように思えます。このまま世の中は良くない方向に進むのでしょうか?」
社会や制度の疲弊への指摘とは、実のところ「ひとりひとりの悩みが、社会の制度だけでは支えられないくらい、多様化している」という事実の表れです。
が、それを群れて煽ることで、誰かの利益に誘導できることもまた事実です。
社会とは、個人の相互作用の集まりです。
その個々人が、少し前だと当たり前だった状況の、枠外にはみ出始めたとでも言っていいでしょう。
社会の制度とは「ひとりひとりの悩みを、最大公約数的にカバーしたり、最低ラインを底上げできるよう、解決策をパッケージ化したもの」です。
選挙も国民皆保険も、雇用制度も、国家によって異なるものの、おおよそ同じことが言えます。
とはいえ個々人が枠外にはみ出始めたゆえに、もともと国家が用意した制度が想定していなかったほどまでに、価値観が多様化しました。テクノロジーを誰でも使いこなせるようになり、個人の自由な発想が今まで以上に(半ば強要されるかのように)求められ、既存の社会制度(政治体制や経済構造)がゆらいでいます。
現状では、テクノロジーや数学(STEM、自然科学)は、読み書きソロバンのような下支えのリテラシーと見なされています。
その埒外にある人文科学(文芸、哲学、宗教、美術、音楽)も、人間ひとりひとりを問うて枠外から解釈するためにフォーカスされていますが、こちらは抽象度が高い割にお金にならないゆえ、読み書きソロバンとまでは行きません。
このギャップがある中で、制度疲弊を含めた社会語りをすると、どうなるでしょうか。
いくら指摘しても、誰が指摘しても、社会問題ばかりが数多く出てきて、個人の未来に向けた意志や勇気のない「未来はヤバい!ヤバい!」という、誰でもできる「難癖つけ煽り」ばかりが目立つようになるのです。
「未来はヤバい!」と煽る人こそ、実は大した実力も実績もないライターどまりとバレてしまっています。特に年齢や学歴や経歴の割に実績が伴わず推されている人は、実力と別な「〇〇映え」の力学が関わっている可能性があります。
社会や制度は、難癖をつければ誰でもいくらでも恣意的に切り分けられます。情報発信側は、煽りに経歴を貼り付けて自作自演が可能です。
人間は私を含めて面倒くさがりであり、放っておくと手近な同調圧力に流されてしまいます。社会への「難癖つけ煽り」が広がるのは、頭の悪い人がそのような情報にイラッ!としやすいためです。
いっぽう、枠外から眺めて、社会のいいところやチャンスを孤独に見出すことは、相応に頭が回り、個々人の痛みに寄り添える人にしかできません。
難癖づけはおそらく人間の数だけ無限に出てくるでしょう。いっぽう、良い方向に進める人とは、他人の悩みを自分の悩みで包み込み、難癖まで包み込んでしまえる人です。
そういう人は、古今東西で言っても少数派であり、常に枠外にいます。
社会制度も、少数派の生き方も、矛盾をどうやって乗り越えるかの工夫です。社会制度は、大矛盾や、人数が多すぎて越えられない壁と隣り合わせです。その事実に気付ければ、社会に矛盾の解決を託すより、個人で矛盾を矛盾のまま正解にしてしまったほうが早いと察知できるかと思います。
社会を題材としたデータ分析は、往々にして過去のトレースや、現状の追認や難癖で終わります。賽の河原のような不毛な議論ごっこです。そこには「未来にこうあったらいいな」という、少数派としての本音の妄想や、矛盾の許容がありません。
この反面、未来を創る分析は、ゼロイチでプロダクトや組織を創るという、ドンピシャの事例もデータもないという究極の矛盾から始まります。先輩への忖度もなく、また老害を抜きにした独自の価値観が許されるのです。
現実解。
「社会や制度が疲弊している」という議論について、いちど枠外の価値観に誘導して「どのような立場の人が、実際にどのように群れ、どのような意図で言っているか?」を本気で懐疑してみてもいいと思います。
自分から枠外にはみ出ないことには、不本意な「煽りの群れ」に押し負けてしまいます。
boxcox.net、遠藤武。