「スポーツは嫌いではないが、体育は嫌いだった」というニュース記事を見かけた。
色々な声が上がるが、この本質は「組織の問題」であり、
教える側と、教える側を管理する組織の実力が、そもそも伴っていないというだけだ。
そもそも教育行政学の前提では、公教育とは「沖縄から北海道まで、全国均一の定食」である。
これはかつて教育法学の教授が何度も繰り返し言っていた事実だ。
体育嫌いが増える指導とは、定食の質が低いだけに過ぎない。
教える側に実力不足のまま指導させており、プロではないのである。
そもそも体育教師自体、少し頭の回る生徒からすれば、まったく不合理なことを言い出して苦痛を与える存在だったというケースは少なくないだろう。
「でもしか教師のくせに生意気だ」というタブーを抱き、殺意すら覚える人も、少なくなかったはずだ。
体育は文字通り「体を育む」ことであり、健康的に自己決定して過ごせれば事足りる。
退屈な根性論を押し付ける場ではない。
現実解。
いっそのこと、受験科目ではない分野の教育は、今後に良い影響を与えられるように「安らぎの場」「ストレス解消の場」としてしまえばよい。
音楽も美術も書道も体育も、そのほうがかえって教育効果が高く、教養として意義深いはずだ。
みんなが率先して勉強以外のことに繰り出すというくらい、ついうっかり楽しく本気で取り組んでしまえばよいのである。
嫌な競技種目には、1回だけ関わったら二度は関わる必要のないようにしてしまえば、自己決定もできて完璧だ。
boxcox.net、遠藤武。