成長し続けている人には一発でわかることだが、
成長には喜びがあると同時に、とても残酷な要素がある。
もともと同じスタート地点にいた人さえ、根本的に話が噛み合わなくなってしまう点だ。
話が噛み合わないとは、価値観が合わないということであり、
審美眼から金銭感覚といった、センスの全てが異なる。
単に話が噛み合わないだけならまだいいが、
成長した人は、そうでない人から嫉妬の対象や村八分にされて、
理不尽に嫌われることなど昔から多々ある。
美人があちこちで嫉妬されることを想定すれば、想像に難くないだろう。
嫉妬対策が必要なことは言うまでもない。
これを読んで「でも成長したい!」と思うなら、堂々と成長すべきだ。
これを読んで「嫌われたくない…」と思うなら、成長せずにいるのも手だ。
全ては自分の好き嫌いで決めればいい。
とはいえ、ただ単に突き放してしまうのも酷なので、もう少しだけ解像度を上げよう。
つまるところ、自分が幸福を感じるか否かという二択しか、決断の材料はない。
既存の理屈として正しくとも、嫌なものは嫌であり、無理なものは無理である。
既存の理屈として間違っていても、好きなものは好きであり、道理にかなうものは道理にかなう。
成長することは、ある意味で理屈を超えることであるため、理屈の我慢大会から一抜けしていい。
もっと好き放題やっておけばよかったと、死ぬ間際についついポツリと言ってしまうのは、悲しい。
好き放題を極めた結果、好き放題がついつい人助けになってしまう方が、死ぬ間際も生き生きできる。
ここまで差がある人だと、もはや話は噛み合わないことは想像に難くないし、
成長している側は結局好き放題無茶苦茶やっていて、そこから新たな価値観を組み上げ、充実しているのである。
それくらいの無茶苦茶がまかり通るからこそ、成長は残酷でもあり、そして素晴らしい。
現実解。
成長したいなら、没頭して無茶苦茶やるときが必ず来る。
これは人を蔑ろにすることでは決してなく、
ついつい熱中や熱狂している本気度のことである。
boxcox.net、遠藤武。