謝れない人は、率直に言って度を越して臆病なだけだ。
虚勢をはっていないと死んでしまう(と思い込んでいる)のであって、
実績はどうあれ、自分に自信がないことを直視していないんだよね。
現実解。
謝れない人は、事実を認めない人の典型だ。
SNSでわめいている状態を眺めてみると、
「科学的」という言葉が大好きな点が共通している。
「科学的」とは、反証が可能ということだ。
反証が可能であるということは、
「科学的=絶対に正しい唯一の模範解答」は存在しないことを認めるのである。
徹底してシンプルに言えば、誰もが抱く模範解答は、
実は間違いだったと認めることが、科学的な姿勢なのである。
模範解答の記憶ゲームは基礎力づくりには重要だが、
基礎力が身についたら、基礎力を使って新たな概念を創る必要がある。
観測できる事実だけを使って、宇宙を含む自然現象を理解しようとしたのは、ガリレオである。
カトリックの異端審問にかけられて終身刑を言い渡された(後に軟禁に減刑)が、
ガリレオの死去から350年後の1992年にローマ教皇が、
「ガリレオの宗教裁判は間違いだった」と謝罪している。
科学的であることを見定める、典型的な例だと言える。
模範解答の記憶ゲームだけでは、文字通り命がけの科学はありえない。
素直に間違いを認める過程、つまり過ちを認めて反省する態度こそ、科学に必須なのである。
振り返って、「謝れない人」が「科学的」を強調するSNSの状況はどうだろう。
率直に言って、度を越して臆病になってしまった人が、
群れた小魚のように全身を大きく見せているだけではないだろうか。
過去に相応の実績や学歴があった人でさえ、
SNSで群れることの心地よさに慣れてしまい、
自分が両の足でどこに立っているのかすら気づけていないのだ。
過去の栄光にすがっているからこそ、
そして挑戦することをやめているからこそ、
「謝れない」とか「科学的」という態度や言葉を免罪符にして、
必死で現状維持しているのである。
デイリーレポートを読んでくれている人なら一発でピンと来るだろう。
わざわざ読まない人は一生ピンとこないだろう。
謝れない人は、ピン!と来ることの清々しさを根本では忘れているので、
わざわざ自分から関わりに行く必要はない。
もし不幸や不注意で関わってしまったら、
二度と関わらないようにすればいいだけの話だ。
素直に謝れるか否かは、
素直に成長できるか否かの選択肢でしかない。
成長したいのなら、素直に謝ればそれだけで成長できる。
謝れない残念な人はゼロにはできないのだから、
謝ることの価値に気づけただけでも超ラッキーということだ。
謝れない人は、今回の人生では、
謝ることの大切さを反面教師として、
必死に身を挺して教えてくれているんだよね。
boxcox.net、遠藤武。