変われない人と変われる人がいる。
変われる人には、
「こうやってみました。更にどうすればいいですか?」
「こう思いました。具体的にどうすればいいですか?」
という、具体的な掘り下げがある。
現実解。
変わっていくには、
行動を具体的に変えるしかない。
具体的とは、
数字で測れる物事や、
自発的な疑問や質問があり、
動いた事実が過去形として残ったということである。
変われない人は、
具体性が全くないし、
疑問や質問が飛んでこない。
疑問や質問がないということは、
その場で足踏みしているだけである。
足踏みのエネルギーを、
半歩でも具体的に歩き出すことに使えばいい。
最初は不安があり、
だからこそ勇気が必要かもしれないが、
実は「足踏みのおかげで、足場は既に固まっていた」という、
過去形の事実が目の前にあることに気づける。
足踏みしつくして、足踏みを自認できるからこそ、
「本当にやるべきことは半歩動くことだ」
という踏み固めに生々しく気づけるのである。
生々しさとは、一番わかりやすい具体性に他ならない。
足踏みや現状維持している事実を愛でる形で、
ついうっかり半歩を誤って踏み出せばいい。
実はそれは正しい誤りであり、
最低最悪の誤答である、
現状意地の牢獄に比べたら、
どうということのない間違いだと、
笑って気づける。
ちなみに言っておくと、
足踏みして変われない人は、
そもそも変わる気がない人である。
変わる気がないから気づけないのだ。
そこから変われるか否かは、飽きっぽいか否かに過ぎない。
単純なことだが、飽きれば気づける。
変わるのが怖いのであれば、
怖さがあることを「正しい」と認めた上で、
飽きてバカバカしくなるまで意識的に足踏みするのも、また一興だ。
足踏みに飽きてしまえば、
怖さで理由をつけるまでもなく変われる。
boxcox.net、遠藤武。