目の前で起こったことは、
全て「次に踏み出してプラスをつくる材料」だからこそ、
目の前で起こったことが全て正しいのである。
個人で出せる行動など、所詮は大河の一滴であり、
吹けば飛ぶようなものでしかない。
だからこそ、目の前で起こったことから、
あっさり素直に学んで、行動を変えて、
プラスを作ればいい。
大多数のその他大勢は、
目の前の物事に「納得行かない!」とか、
「これはひどいなあ…」のように、
いちいち文句を言い出す。
その割に、自分の実情は完全に無視し、
痛いところは絶対に衝かない。
このような自家撞着を認めないでいるうちは、
その他大勢のままである。
自分が変わった回数だけしか、
物事の大勢を変えることはできない。
ここで言う「変わった」は、
変わる前と比べて、
最低でも51%以上を入れ替えることである。
そうでないなら、
変わったとは言えない。
何かにつけて迷ったり気になったり、
嫌な思いをしたのなら、
とびきり天高くから全体を眺め、
目の前で起こった事実を事実として認め、
上から全体を眺めるのである。
そこから一点突破して、一瞬で再起すればいい。
嫌なことを敢えて認めるのだから、
一見すると怖くて当然だが、
実はダメージを受けることなど何もない。
ほとんどは取り越し苦労である。
読書は、どこかで誰かが、
文字に起こして再現してくれた、
「上から全体を眺める」動作である。
ひとしずくを集めて掛け算し、
ダムや浄水場や水道を作って水を客先に届ける、
そんな全体感のあるコト作りも、
一つ一つの技術や、
雨粒一滴があってこそ成り立つ。
大河の一滴は取るに足らないが、
ナメてかかるともったいない。
ナメないと味すらわからないもの。
現実解。
目の前で起こったことについて、
「正しい!プラスに捉えていこう!」
とフォーカスするのは、
味という事実を知って、
取るに足らないところからでも、
素直に変わっていく切り口なんだよね。
boxcox.net、遠藤武。