月別アーカイブ: 2017年12月

「知名度」の扱い方

メディアに出てくる人の、すべての発言やキャラクターづくりは、

「台本ありき」「宣伝ありき」のほか「知名度ありき」と思っておくだけでいい。
芸能人や有名人が好かれる/嫌われるとは、少なくとも「知名度」を課税標準とした「有名税」でしかない。
嫌われ度ランキングで上位に入るなら「嫌い」という売り方が成り立つというだけだ。
好かれる/嫌われるという傾向に、多くの消費者の共通した動向が見つかるかもしれないし、そうでないかもしれない。
嫌われることが売り上げにつながるのは、それだけで立派なマーケティングということになる。

本当に嫌いなら、一切クチにしないでおくか、十把一絡げで扱っておくだけで充分なんだよね。

「聞き飽きた情報」の扱い方

「ネットで真実」とか「大手マスコミ不要論」はおおよそ聞き飽きた。発し手のヘナチョコさを隠すための、安易な隠れ蓑に過ぎない。

SNSの炎上騒ぎや煽り合いやバッシングやレッテル付けも聞き飽きた。書き手がどんどん自分の格を下げているに過ぎない。

打倒・疑似科学だとか、反・反●●のような科学者の言も聞き飽きた。そもそもがテンプレートの応酬でしかなく、そこに現実解を目指す発想がない。

これらは「仏作って魂入れず」どころか「仏も魂も作ったフリをしている」だけの、宣伝だか宣伝じゃないのか、方向性がとうとうよくわからない行為でしかない。

これ以上聞き飽きたくないのであれば、「その意見に、どれだけ自由意思の尊重が存在するか」という視点を保つ必要がある。仏大手新聞ル・モンドのこのような記事のクオリティの文面が、日本語でほぼ手に入らないというのはとても残念である。

自由な知性と教養が大切だと腹落ちする人が増えていかないと、こればっかりはどうしようもない。
自分が情報を発しているのは、この大穴を埋めるためなんだよね。

「人事」の扱い方

人事の本質は「ドッキリ」とか「手品」のようなものだ。

直接言っても聞かない人材は多数いるし、何も言わなくとも上手く立ち回れる人材も多数いる。「そのような人材をいかに組み合わせて、どのようにモチベーションを焚きつけるか」が人事である、というのは、おとなしい模範解答に過ぎない。

少しばかり元気が良過ぎる解答をするならば「ドッキリや手品のごとく、どのように情報や人員配置を操って、モチベーションを焚きつけるか」がポイントである。

組織のバランスの悪さに悩むなら、喜んで・納得して別部隊に異動できる状況を作り出し、ソロプレイが得意な人はソロプレイをさせ、チームプレイが得意な人はチームプレイをさせればいい。

意味のない一方的な仲違いを起こすチームメンバーがいるなら、問題児を納得できる場に異動させてしまえばいい。

良い人もダメな人も、実のところ、環境で根本的に変わるのである。マネジメントは、そのような動きを任せられる人材を採用する予算と勇気が全てだ。

なお、人事は細やかな気配りができない人や、人の痛みがわからない人や、文句ばかり言い出す人や、人によって態度を変える人や、自分の不勉強を許容する人には、何が何でも絶対に触れさせてはいけない。

さもなくば、組織は付加価値を得られず、100%瓦解する。

逆に言えば、心理的に平らかで思慮深く、セルフスターターであれば、成功が確実な分野でもあるんだよね。

「バイアス」の扱い方

公私を問わず、メディアは何らかの意図が明示的または暗示的に存在している。

この意図こそ「バイアス」だ。誰かに物事を的確に伝えるには、書いたものがどのように解釈されるかを、徹底してコントロールする意図が必要である。

このとき、何らかの偏りが不可避的に生じてしまう。メッセージを的確に伝え続けるには、バイアスを避けて通れない。むしろ、物事には全て、何らかのバイアスがあると思っておくくらいでちょうどいい。

また、科学的手法に固執しすぎて、既存の手法を通じた追認に終始し、実のところろくに先行研究も調べていないような恣意的で残念な状況は、多々生じうる。これも一つの悪質なバイアスだ。

バイアスをなくすことも、バイアスを嫌うという意図を実現するための「バイアスフリーというバイアスによる上書き」だ。それだけバイアスはなくしようがないのである。

メディアを分析的に見る側が、欠かさず持つべき意図ということなんだよね。

「社会学」の扱い方

社会学は、ファイナルファンタジーで言えば「みやぶる」や「ライブラ」と同じである。

学歴、職歴、出身地、性別/性志向、趣味、顔つき、言語と発言内容、居住地、転居歴、恋愛/婚姻歴、
髪や皮膚の色、装飾品、服飾、年収、所属先とポジション、宗教、思想信条、健康状態、心理状態、生育歴……。

これらの変数の組み合わせで、おおよそどういうパーソナリティかを特定できてしまう。

もっとも、この属性や変数の囚人になる必要は全くない。珍しい組み合わせの変数を、自分で組み上げればいいだけだ。

自分自信をあたかもゲームのように見立てて育成することが、特定の社会階層から脱する生き方につながればいい。

そのとき、社会学という事実の解釈は、ゲームより奇なりということなんだよね。

「成長を連呼する人」の扱い方

「成長!成長!」と言いながら、「あれ?まるで成長していない…」という人が少なくない。

これは誰のことだろうか?
インサイトや引用文献が皆無の、ライターのことだ。

具体的に使う肩書きは、
・コラムニスト
・文筆家
・アフィリエイター
・プロブロガー
などである。

彼らは、ウェブで文字を売って自分をブランドにする割に、立ち居振る舞いや発言内容に一貫性がない。

自分の頭で考えることを連呼している割に、クリティカルな視点を欠いている特にSTEMや人文科学や教育制度の論点に、極めて疎い。

情報のQCD(Quality, Cost, Delivery)のうち、Dの速さでQをカバーするだけでは、読む人が読めばわかるが、Qの質が高いと言えない。

こういう層は、値段が高いだけで中身のない情報商材やマルチ商法だとか名無しさんのコメントと見做して考えると合理的である。 

「ライターの名前を出さず、十把一絡げのバルク品への不具合対応を行う」と見たてれば良い。バルク品として活用可能な言説があれば、さっさと上級財の元ネタを探って上書きし、自分で適切に引用する。

これは、ウェブ上での炎上売名の手助けに加担せず、あなた独自のインサイトを出すという意味がある。

どうしても名前がポイントになるなら、2ch(5ch)よろしく、名前を伏せ字やパロディや、意図的に書き間違えてみるのも効果的かもしれない。

その際「特定の誰かを名指しであげつらって叩くのは、カッコ悪いどころか、あなたのQualityを下げてしまうよ」という視点を、どうかお忘れなく。

レベルの低い側に合わせる必要など、どこにもないんだよね。

「残念」の扱い方

「間に、信頼できる第三者や知識やサービスや距離を噛ませる」ことで、残念な人を回避することができる。

ここで言う残念な人とは、特定のコミュニティの中で、これ以上関わるべきでない迷惑や害悪をもたらす人のことだ。

具体的には、
・校内暴力の当事者
・ハラスメントの当事者
・家庭内暴力の当事者
などが当てはまる。

原理原則として、残念さに起因する「人生の無駄遣い」に遭遇したら、あなたがまずすべきことは「それを切り捨ててさっさと安全を確保すること」だ

その前段階として、法律やその他規則や、信頼できる人などを必要なだけ何枚か噛ませることが正しい。

物理的にも心理的にも社会的にも、ダメなものからは距離を取ることが全てである。自由の始まりはここからだ。

なぜ学ぶことが必要か?と問われたら、

・何が良くて何がダメかを判断・決断できるようになるため
・人や物事に対し、適度な距離を取って適切な自由を維持するため
・非常事態に逃げてもさらに良い環境を構築できるようになるため
と即答できるくらいで、残念な人の扱い方はお釣りが来る。

残念な人の回避に限らず、残念な場面の回避や、残念な自分自信を愛してやるきっかけ作りにも、これは有効だ。

ここで挙げた残念さについて、「逃げ」という言葉を排除し、「安全確保」と言い換えてみるといいんだよね。

「流暢」の本音 その3

外国語にせよ母語にせよ、わからない状態でも、わからないなりに言葉や概念を発し、臆さず並べてみよう。

この発想で、気分よく盛り立てて場をつなげることは、流暢さの一形態だ。

「論理的」という言葉を脇に退けて、どうやったら的確に伝わるかを推測しながら述べるといい。場合によっては、とにかく重要な点をパラフレーズし、とにかく発言するだけでもまずは合格だ。

テストや面接でない限り、仮に内容が論点からズレていたら、誰かが拾い戻してフォローしてくれるだろう。

それでも口下手だと感じるなら、
・話したい内容を何十回も何百回も口に出す
・脳裏で連呼する
・つらつらと書き出す
・本や他人から概念や言葉を借りてしまう
といい。これらはセットで行うと更にお得だ。

口下手なりに、思考と行動を何百回でも何千回でも繰り返してしまえば、実は対応策が浮き彫りになるんだよね。

「ケンカ」の使い道

ケンカなど、下らないからすべきではない。

偏狭な人同士が自分の偏狭さを棚に上げて「おまえは偏狭だ」と言い合うことがケンカの本質だからである。

それでも、敢えて避けられずにケンカをするなら、「自分に効用がある、自己完結できる構造のケンカ」をするというのが、鉄の掟だ。

まず断っておく。対人戦や対社会戦で法律に訴えることは、蹂躙され尊厳を奪われた人の、最後の手段だと心得よう。個人ベースでそこまで退っ引きならない状況であるなら、基本は「逃げるが勝ち」である。
(当然だが「不公正を見過ごせ」とも「泣き寝入りしろ」とも「法に訴えるな」とも言うつもりはない。)

以上のような退っ引きならないレベルではなく、「あ?ふざけんじゃねえぞコラァ!」というような、数世代前の不良漫画のような仁義の話を、ここでは仮定している。

このときの「効用」とは、より良いポジションを得たり、スキルを高めたり、新天地を得たり…というものである。「効用のあるケンカ」とは、ゲームで言うところの「勝てば経験値を得られる、消耗しないボスバトル」ということである。

このような、イメージのしやすいイベント戦を自分で定義し、クリアを目指すことがポイントだ。自分で自分を主役にするゲームを作る、と言い換えてもいい。フィクションは、そのために触れるのである。

ケンカはゲームと同じくらい奇なり、ということをお忘れなく。

「神経質」の使い道

神経質だとか心配性なら、場の状況を網羅しつくす側に回ろう。

「攻略本を書く側」と言い換えてもいい。

自分を中心に「よく分からなくて不安」という状況を根本的に変えることが、この目的と効用だ。
これは「他人の成すことはさておき、自分の成すことをさっさと変える」という発想につながる。

不安を抱けるだけの感受性があるあなたは、不安を自律的なエネルギー放出に転化することは、実利のあるストレス解消だ。
ここでつまずく人は、不安を他律的なエネルギー放出(たとえば陰口やねたみ)に浪費し、実利のないストレス解消にふけるだけである。
前者の情報源は読書と体験(芸術や科学や、現場での一次情報)の猛烈なサイクル、後者の情報源はのんべんだらりとした噂話や陳腐なテレビ番組という傾向にある。
前者は神経質さを用いて不安を拭い去るのに対し、後者は神経質なため不安を食らって生きるような事実を、どうかお忘れなく。