月別アーカイブ: 2018年12月

ビジネスと賭け事。

ビジネスを賭け事と言い張る人がいるが、これは実は嘘だ。

知見や失敗を通じ、活躍しやすい舞台を見つけ、
確実に実績を積めばいいだけの話だ。

仮に、「勝負師であれ」というような、
鼻息の荒い視点を売って収益を出す人があるとしたら、
その人はギャンブルの胴元に過ぎない。

単に、汗臭い発言を聞きたい人による需要があり、
そのサービスが売れているだけの話であって、
実は本人は勝負師でも何でもない。
言行一致など、しようがないというのが事実である。

仮に、たまたまビジネスが当たったというのなら、
それは賭け事に勝っただけであって、
継続的に活躍できるような物事ではない。

勝ち負けに踊らされて矮小化するのではなく、
活躍と成長が大事なんだよね。

筆記試験とタブー。

筆記試験の捉え方。

日本語圏(という科挙の文化圏)では、
入試や司法試験や公務員試験は、
これでもかというくらい神格化されている。

特に大学の学部入試は、この傾向が顕著だ。
予備校は、ここにぶらさがったビジネスだからこそ、
より神格化を強化しているわけだ。

現代の筆記試験は、テスト理論や項目応答理論で、
統計的性質から説明をつけようとする。

とはいっても、神格化された要素について、
一定の理論で読み解くまでには至っていない。

特に学部入試と予備校の関係について、
統計的性質からの研究は全く手付かずという、
面白い現象が未だに宙ぶらりんで浮いている。

まともに筆記試験の性質を暴こうとするならば、
「そもそも筆記試験って、適切に能力を反映していないかもよ?」
という問いを立てることについて、許可を出すしかない。

これが何を意味するか。
ゼロベースでこのような許可を出してしまうと、
日本語文化圏での「頭の良さ」「知識人」「学問」のブランドが、
そのあり方を含めて一気に崩壊しかねないことになる。

筆記試験の是非については、泥沼化して全然決着がつかず、
少なく見積もっても、向こう50〜100年くらいは、
既存の議論の延長線上の発想が続くんじゃないかと思う。

要は、根源的・歴史的な視点や、先行研究から、
虚心坦懐に物事を眺める勇気も基礎力もないために、
タブーを保持したまま、日本語圏だけでぬるま湯につかり続けているのだ。

これが意味することは何か。
日本語圏で、議論する習慣ががまともに根付かないのは、
特に「頭の良さ」「知識人」「学問・学歴」について、
タブーをいっさい放置したままということである。

このタブーの放置についての個人的見解。
ここまで述べたタブーの放置は、シンプルに言えば学問の作法の欠如だけれど、
現実解として、これを頭ごなしに「無作法だ」と否定するつもりは毛頭ない。

現にその不正解やタブーを抱え続けている現実で、
精神的な生態系が出来上がっている事実を、
虚心坦懐に見るべきだからである。

頭ごなしに否定し、この事実を解きほぐさないでいるならば、
タブーや不正解や誤解や先行研究から、腹落ちを得ることなど不可能だ。

行政学や歴史学あたりから、いくらでもエビデンスを掘り下げられるとしても、
「海外に逃げた」「議論に逃げた」「試験から逃げた」「試験に逃げた」
という、やり場のない不快感や怒りを消せない人たちは残り続ける。

逃げずに解きほぐすべきは、この不快感や怒りのメカニズムであり、
それが心理学なのか精神分析なのか社会学なのかビジネスなのか、
あるいは自然科学や数学の知識の格差が招くものなのか、
そのどれでもないのか……を、先行事例を扱いながら腹落ちを目指すことだ。

試験文化と、アカデミックな議論文化、
現実的には一方に偏る必要も、いずれかを神格化する必要もない。
少しずつ腹落ちしていくだけで、タブーを切り開くことができるんだよね。

好奇心と馴れ合い。

好奇心があるということは、成長のカギである。
好奇心がなくなれば、すなわち衰退の始まりだ。

例えば、以下のような状況は衰退のサインだと言える。
・ギャンブル浸り
・酒浸り(飲み会などカジュアルなもの含む)
・愚痴ばかりで人をイラつかせる 
・炎上芸に走る
・新しい知識や知見を出そうとしない

これは「知らず知らずのうちに、既存の状況と馴れ合いを繰り返している」
という形で、問題提起にも解決にも向き合っていないことで共通している。

馴れ合いとは、
「知恵を絞って発想や工夫することから逃げた現状維持」
ということに他ならない。

あるいは、置かれた立場の構造上、
発想を枠外から眺める勇気を知らず知らずに断たれた、
残念な状況とも言える。

学歴がさほど関係してこないような、
音楽・絵・デザイン・演劇・小説・作詞などの分野だろうと、
学歴を持ち出してくることが相応に有利になる種類の分野だろうと、
これは全く関係がない。

一定の頭脳労働が絡んでくるクリエイターでさえ、
馴れ合いに走ると、一発で底の浅さがすぐに見えてしまう。
知識労働は世界が固まりやすいので、言わずもがな、である。

かつて好奇心を持って工夫したことがあるとしよう。
どんなに些細なことだっていい。

小学校の図工で、焼き物がうまく出来て褒められたことから、
PhD(博士号)を取って、論文が表彰されたことだっていい。

好奇心がなく、既存の状況と馴れ合うことの恐さとは、
過去の栄光を鼻にかけ、現在を知らぬ間に食いつぶし、
見苦しい虚栄心でしか動けなくなることにある。

気づいたら、精神も知性も勇気もなく、成長が止まって自滅する。
そんな「再起不能の“元”出来る人」は、現に実績がある人にも少なくない。

新しい知識の導入や、古くなった知識の上書き消去や、
根本的に間違っていた知識の修正がない状態とは、
「考える葦」としての機能をゼロにされている。

実があっても、既に枯れている状態ということだ。

このような状況を脱する上で、
怖くてどうしようもない人のための対応策。

物事にはサイクルや浮き沈みや停滞期が必ずある。
これを堂々と認め、1mmでも一瞬でも自分の枠の外に出る勇気を持つ。

そんな勇気を通じて「“現”出来る人」を経て、
少しだけ先の「出来ている人」「出来た人」を着地点にする。

過去と今を直視し、好奇心をテコにして、
馴れ合いを飛び越えてしまえばいいんだよね。

現実的かつ好都合な着地点は、思いのほか近場にあると気づけるよ。

スタートアップ。

クールに熱く機能している、現代的なスタートアップ企業の条件は、
気ままに思いつくところでこんな具合だろう。

・意思決定が物凄く早い
・発想や組織構造に柔軟性がある
・堂々と挑戦し、堂々と失敗して、堂々と学ぶ
・個人の自由な動き方を「これでもか!」とまでに認めている

これらが揃っていなければ、それはスタートアップでも何でもない。
何十億円と資金調達したことを誇ろうと、それ自体は投資家から借金だけの中小零細企業である。

大きく成長するスタートアップなど、その率は全体のほんの数%に過ぎない。
だからこそ、既存の価値観で動かず、失敗から柔軟かつ自由に学ぶことを重視するのだ。

ある程度成長し、それ以上の伸びが見込めなくなると、
人事から組織構成まで、そこらへんのサラリーマン企業レベルまで、
一気に古臭く落ち込んでしまう。

日系証券会社やメガバンクやVCなど、
金融機関出身者が創業する(あるいは加わる)と、
古臭い集団主義の本音が見え隠れしてしまう傾向は興味深い。
(外資金融の場合、少人数でビジネスライクなフロント業務経験者はこの枠外だ。
他方、アドバイザリー経験者だと、集団主義的な傾向が出てしまう。)

言い切ってしまおう。
ここには「個人の自由など、邪魔なリスク要因」という本音があり、
それが集団主義的で古臭い意思決定として、反映されるのだ。

この裏側には、企業としてはこれ以上の本質的な成長は見込めないため、
集団主義やヒエラルキーのほうが都合や居心地が良く、
企業をexitさせやすいという状況が存在している。

スタートアップが、大企業然とした残念な中小企業レベルに落ち込んでいたり、
大企業が、スタートアップの良さを徹底的に取り込んでいたり、
中小企業が、スタートアップも大企業もビックリするような報酬体系を持っていたりする。
これは全て、組織のヒエラルキーの上方の視点がそっくりそのまま反映されているだけだ。

結局のところ、継続して勝つ組織とは、
良さを柔軟に取り込み、組織全体に素早く広げて、
現代的にアップデートしていくことにある。

これにいち早く気付いて実行し、
実行を尊重するマネジメントを用意するだけで、
実は割と簡単に抜きん出られるんだよね。

リスクを取る。

VCや投資家から出資してもらい、そこから事業にコミットメントする。
知識・知恵に自分で投資し、低コスト+高付加価値+変化という知的生産を行う。
このどちらも、リスクを取っていると言える。
お金を借りて(あるいは自前で用意して)行動するリスクを取るのか、
知恵を借りて(あるいは自前で用意して)行動するリスクを取るのか。
どちらをどれだけ取るかは、各人の資質に応じて選べばいい。
これ2つは、全く違うように見えて、本質は相互補完的である。
両方が揃って、攻めるも守るも初めてリスク管理が成り立つ。
最も、多くの人はこの事実に気づけていない。
あるいは頭でわかっていても、ある日突然に無視してしまう。
リスクを取るなら、この2つは最低限網羅しておくだけでお得なんだよね。

恋愛に例える。

仕事や趣味や特技や人生を、恋愛に例えることは少なくない。

実のところ、恋愛の快楽以上にハマり込んでいる物事があるならば、
恋愛に例えるということ自体、大した意味をなさない。
むしろ、テンプレート的な価値観に煽られるがままに、
何でも安易に恋愛にばかり持ち込もうとする態度は、
頭を使わず、ポルノばかり読み散らかすのと何ら変わらない。
どのような階層に向けて発している情報かを把握せず、
価値観を鵜呑みにし続けてしまうというのは、
本質的にはギャンブルでお金を毟り取られることと同じである。
安易に恋愛に逃げるというのは、要は何も考えていないのだ。
実のところ、自分を鍛えることの快楽が、
恋愛の快楽を上回るとき、
とんでもない爆発力があっさりともたらされるんだよね。
物事を自分なりに恋愛に例え、納得行く思考を付与すると、こんな具合だ。

知識の詰め込み。

「ネットで何でも調べられるようになり、知識の詰め込みには価値がなくなった」
ネットでよく見かけるこの視点は、実は真っ赤な嘘だ。

 そもそも知識の詰め込みとは、試験対策程度で完結が出来るような類の話ではない。

「論文や専門書を複数言語で読んで、知的生産としてアウトプットする訓練と実践」
という、世界共通の大前提が存在している。

残念ながら、日本語圏ではこのようなハードワークを経験できる層は、ごくごく限られてしまっており、なかなか気づけないのが現実だ。

大卒以上(かつ上から数えたほうが早いランクの大学)で言おう。
シケプリ・過去問・マスプロのどれかに無批判に関わり続けていると、懐疑する自由がなくなってしまう。

また、そのままサラリーマンや研究者といった職を得てしまうと、自己目的化されたハードワークや、方向転換の機会は、ほとんど得る機会がなくなってしまう。

純粋に自己目的化されているハードワークを経験をしていない状態では、
詰め込みも知的生産も、それらを通じた懐疑も方向転換も、
上記のような大多数は自由にできないということだ。

常識に感化されすぎたり、職を得たあとだと、
自己目的的な無所属という自由が消えてしまい、
どうしても目先のバイアスに脇道をそらされてしまうためである。

せいぜい、新卒一括入社のサラリーマンを経た後、海外で働くか学ぶかして、ようやく「もしかしておかしい?」と連呼する側に回るのが関の山だ。

一方、前向きなことを言おう。
自由に根ざした知的なハードワークを経ていると、どこかで「方向転換しよう」という意思がふと働く。

これは、ハードワークを経て1つの分野についつい飽きてしまったり、ふと思わぬところでついつい知的好奇心が働いて共通点を見つけたりして、ついついもっと自由に学ぼうとしてしまう反応だ。要は、ハードワークを繰り返した体験が、ランナーズハイのような感覚を誘っていると言っていい。

この感覚を持っている人からすると、おおよその物事は「知識不足」という視点で解決できてしまうし、知識や事例の組み合わせから、将来や未来を手繰り寄せることができる。

私が知識不足の回避を繰り返すのは、
「詰め込むべき知識を素直に探れる、自由な懐疑心を確保するため」
だと言い切っていい。

前提になる知識をある程度網羅する形で得ていれば、何が足りなくて、何を知っていて、何を疑うべきかが見えて来る。

「知識の詰め込みは、ネットで何でも調べられる今となっては意味がない」
この当たり前らしき主張を、自分の言葉で疑える知識と経験を頭の片隅に用意しよう。

悩みのタネである問題を軽くする、その前提の詰め込みが、第一歩だ。
強烈で生々しい悩みであるほど、自由かつ自発的に動くしかないものね。

格差の放置。

格差の放置は、治安やインフラ管理や公衆衛生を悪化させる原因だ。
不公正がこれをもたらしていれば、そこに怒りを仕向けることは自然の流れだ。

社会単位か個人単位かはさておき、
格差を乗り越える方法は、
1.「税金徴収を通じ、所得を再分配する」
2.「知識と行動を通じ、所得の成長機会を得る」
という2つしか存在しない。

格差が上からも下からも解消しづらい原因とは、
端的に言えばお互いの無知に起因する。

紛れもない事実を挙げると、
1.を唱える社会運動家らは、2.について無知である。
2.で経済的に成長した層は、1.について無知である。

仮に、無知である現実を乗り越えているしたらどうなるか。

例えば、成長するための資源(教育や高度な職業訓練)について、
全くアクセスしようのない障壁があるとしよう。

その場合、成長のための資源を用意する必要があると議論を進展させればいい。
経済成長のお裾分けとして、所得の再分配を捉え直せばいいのである。
かつ、不公正で動く層を排除するための草の根レベルの監視が機能すれば、
個人だろうと社会だろうと、主体的に動く人が数多く出てくるだろう。
技術革新や、リーダーシップの入れ替わりも起こりやすい。

現実の状況に戻ろう。

議論がここまで進展せず、格差が放置され続けているのは、
お互いの無知がもたらした不公正に過ぎない。

個人でも社会でも、それぞれのバイアスに集中しすぎると、
結果的に「無知でいいや」という発想がはびこってしまう。
このとき最強なのは、アップデートの足りない、古臭い物事の頂点にいる層である。

言い切ってしまうよ。
過去の資産や栄光を食いつぶして生きているような層が、
すべてこれに当てはまるんだよね。

この乗り切り方。

知識のアップデートを通じて、
何が古臭く、何が新しく、何が足りていて、何が足りないかを、
シンプルに抉り出すだけでいい。

知識化されていないものを言葉にするだけで、
新たな知識や知恵にも恵まれる機会が出せる。

「不公正はおかしい」と感じるなら、
既存の延長線上に努力を放置するのではなく、
まず「無知でいられない状態に、インセンティブを付与する」だけでいい。

そもそも、世の中から歪みは無くならない。
無知であることを放置せず、歪みに仕組みを付与することで、
実はチャンスが多く出てくるんだよね。

大卒の進路。

大卒の進路は、

(1)アカデミックスキルを活かせる分野に進む

(2)誰もがブランドと待遇の良さを知る大手企業や公共セクターに進む
(3)大卒のメリットが全くない上記以外の分野に進む
という分かれ目に直面する。
大学を経ることの一番のメリットである(1)を掘り下げよう。
原理原則として、
「アカデミックスキルを活かして、自分で自分のポストや待遇を決められる分野」を、
大学・大学院在学中やその後に炙り出すことに、学びの意味がある。
自分と向き合って学び続けるということは、自由を行使して成長できることに他ならない。
懐疑心と知的好奇心を持ち続けられる(=サラリーマン化しない)研究者が(1)の最たる例だが、
それ以外にアカデミックスキルを活かした立場を前提とする場合、
起業家や作家など、自営業全般を入れてもいいだろう。
いっぽう、(1)と似て非なる存在として「頭の回転」「ワクワクする」という状況を活かした事例がある。
これらは、その時の最大瞬間風速である気分に頼っているのみであって、
実のところ成長機会を作れず、10年後や20年後に頭打ちを迎えてしまうことになりかねない。
起業家や文筆家で、
「言ってることに原理原則がないなあ」
「アップデートせず古臭いなあ」
「冴えない人と同じことを繰り返しているなあ」
という層は、実のところ大学で学ばず、それ以降も学ぶことからドロップアウトし続けているというだけだ。
今の日本の大学のマスプロっぷりはさておき、
「お金が出来たので、マスプロでない海外の大学や大学院に入り直して、改めて自分の好きな分野を学んだ」
「教育を再構築するために、教育について世界的・歴史的な目線で海外の大学で原理原則を学び直した」
といった人は、特にウェブで見かける起業家やライターでは、いくら稼ごうとほぼ皆無である。
これは「頭の回転」や「ワクワクする」という瞬間風速にとどまり、(1)で身につくような作法は想像だにできず、
ただただ思考と行動が全く追いついていないというだけの話だ。
これは(2)のサラリーマンにも言えることだが、学ぶことを放棄し続けてしまうと、
大卒のメリットがない(3)に向けて経年劣化するということである。
この状況に陥った層は、実は論文や学術書・技術書や古典で上位互換出来てしまう。
彼らは学ばないわけではないが、学びが中途半端という点で共通している。
経年劣化した層のアウトプットをひとつの専門書だか論文として照らすと、
先行研究の検討が甘く、議論の脆弱性が一発でバレてしまう。
適切な先行研究やベストプラクティスを探して組み合わせれば、あっさり上位互換が出来てしまうのだ。
成長することに着目していれば、自ずと先行研究や世界の動向を掴んで、迅速にベンチマークしていくことになる。
それをできない・していない中途半端ぶりとは、自分で自分の進路を閉ざしていることに他ならない。
これは逆に、自分から学び続ける人にとっては、チャンスを常にプレゼントしてもらっているということなんだよね。

可能性。

可能性とは、それを肯定しようとする人のみ、
その成果を成長や成功として得られる。

自分の可能性であれ、他者の可能性であれ、
少しでも否定しようものなら、
可能性はあっという間に逃げていってしまう。

「あんたになんかできるわけない」
「おまえなんか合格しないよ」
他人に向けて平気でそう言い放つことができる人は、
まず自分が何も実現できない事実を無視しているのである。

自分のことを考える以前に、他人のことばかりが気になって、
結果的に他人に流されているということだ。
もし何か実現したとしても、かりそめのものでしかなく、
ろくに続かないというのが関の山だ。

大多数が猛反対するからこそ敢えて挑戦して、
その結果ものすごい成果を収めるという人は、
ただ一人だけ肯定的なビジョンを維持し続けていたということだ。

たとえ、自分の可能性を大多数に猛反対されても、
ほんの少しの肯定的な支援者と一緒に、
自分を肯定できる具体的な材料を淡々と集め、
根拠の有り無し問わず、自信を持ち続ければいい。

それが最初たった一人の孤独な物事だとしても、
言語であれ、非言語的な凄みであれ、他者に説明が出来るのであるならば、
共感・応援してくれる人がふとどこかで増えてくるんだよね。