人の嫌がることをしない人は、生き残れる。
相手を理解し、かつ世の中の基礎を知っているため、
暴言のような失言から無縁になるためだ。
これと逆で、無意識だろうとそうでなかろうと、
人の嫌がることを言い出す人が生き残れないのは、
無意識のうちに敵を作ってしまうからだと覚えておこう。
特に、自分で良かれと思ってやったことが、
実は相手が欲しておらず、
それどころか嫌がらせとして機能してしまった場合、
真っ先に自分の基礎不足を疑う以外にない。
まともな頭をしていれば、基礎不足の人など絶対に関わり合いになりたくない。
そんな基礎不足に「それは間違いだよ」と答えてくれるケースもあるかもしれないが、
基礎不足の人に限って「良くしてやったのに何を言ってるんだ!」と逆ギレする。
こうなってはもう終わりだ。
基礎不足は、切り離しの対象として衰退し、
基礎不足を切り離した人は、栄える。
これが原理原則だ。
「良かれと思ってやった」は最低最悪の曲者であり、
「良かれと思ってやった」が言い訳出るうちは基礎不足である。
本当に「良かれと思ってやる」なら、
相手の思考に先回りして、
「こういうシナリオでやるけど、ok?」
聞くことが必須だ。
常識を守ることではなく、非常識に価値を出す攻め方が全てである。
要は勝手に思い込みで動かず、
相手にとって都合のいい格上げ場面を作る黒子に徹するのだ。
これができる人は愛される。
圧倒的に少数派だから。
これができない人は無視される。
明らかに普通の子で退屈だから。
人が嫌がることをしないとは、
人を心底喜ばせて安心することであり、
あきらかに普通のことではないため、
文字通り有難い存在なのだ。
本義的なエンジェル投資であり、
依怙贔屓のカタマリだ。
こういうスタンスで本音で会話して、
良いものは良い、嫌だから嫌、非常識に直言できる…、
という密談ができれば、誰でもついつい、
感動してメロメロになっちゃうものね。
現実解。
相手軸で生きることができ、
その行動に当然に自分軸も込められていると、
その人は自ずと生き延びて成長する。
なぜって、本音を出しても嫌がられる要素がないから、最強だもの。
追記。
本音を出し合える相手は、そう多くはならない。
実力が一定水準以上の場合、非常識で失礼なことも隠さずに言い切ったり、実行できる必要があるためだ。
なぜって、「これは嫌だ」から逆算して「これは素晴らしい!」で埋め尽くせば、総合的にみて勝率が上がるためである。
いちいち聖域で隠さず、頭脳プレーしあって価値を出しあえる関係は、
嫌なことをしないが非常識であり、実力の証なのだ。
ボックスコックスネット、遠藤武。