人はすべからく自由であるべきだ。
これは十全に正しいことだと確信している。
その一方で、自由がありながら、閉塞感に悩まされる人たちが必ず存在する。
「自由すぎて、何を選んだらいいかわからない」と。
これが災いして失敗し、かえって不自由になってしまう。
これが災いして失敗し、かえって不自由になってしまう。
選択の自由であれ、経済的な自由であれ、準備がない状態で自由度の高さに直面してしまうと、
「何をどう動くべきか、皆目検討がつかない」という思いばかり尽きない。
「何をどう動くべきか、皆目検討がつかない」という思いばかり尽きない。
不自由を感じるなら、以下の二択を促されているということだ。
「あなたの現状が認識にフィットしないから、色々な知識を仕入れたり経験をしてみたら?」
「あなたの現状が認識にフィットしないから、色々な知識も経験も疑って積み減らしてみたら?」
と。
自由とは「ルールを自分から創って自由に動くために資する環境」ということにほかならない。
知識を仕入れて経験して、さらにその二つを疑って積み減らすという、「作っては壊す」の過程が必須でる。
本を大量に読む一方、なるだけ読まずに書きまくる日を設定する。
お金が入った一方、ある程度太っ腹に使う日を設定する。
勝っている思った一方、別のところである程度負けておく。
自由に過ごす一方、なるだけ不自由な部分も残しておく。
相反する二つの概念があるからこそ、自由が浮き彫りになる。
こういう発想ができない状態の自由なんて「自由の押しつけによる不自由」でしかなく、
バランスを崩して矛盾してしまうんだよね。