「時間の無駄だ!」と感じることからは、さっさとこっそり毛嫌いして見下して撤退していい。あくまでこっそり。
特にあなたも、全体像から即断即決して根拠を以って把握できる能力があるなら、黙々と撤退に動くべきだ。
また、いろいろ挑戦して失敗も成功も経験し向上心を持っている人が、生理的にも直感的にも「嫌い!」と感じたときも、同様に撤退すべきだ。
これらに当てはまらない人は「時間の無駄だ!」と言い切るには準備不足かもしれないことに注意したい。
これはどういうことか?
自分自身を鍛えずして「時間の無駄だ!」と言い切るには、まだチカラが足りていないという状況のことである。
自分自身を鍛えずして「時間の無駄だ!」と言い切るには、まだチカラが足りていないという状況のことである。
材料となる経験としての「徹底的に無駄で無為で非生産的な、自分と向き合う時間」が、価値観を鍛える。
これは哲学や文学や音楽や美術に費やした時間でもあれば、あるいは物理学や数学の場合でもある。
あるいは投獄された期間かもしれないし、日常で文字通り「無駄な時間を過ごした!」と嫌というほど自認できる時期かもしれない。
あるいは投獄された期間かもしれないし、日常で文字通り「無駄な時間を過ごした!」と嫌というほど自認できる時期かもしれない。
いずれの経験も、無駄で無目的な時間とそうでない時間のあいだで生じる対立によるフィードバックが、あなたを目利きにしてくれる。
本当に無駄なのは、何も感じず、嫌なことに嫌だと率直にフィードバックできないままでいることである。
「時間の無駄だ!」と言い切れる感性がないこととは、即ち「フィードバックができない」ことだ。
使った時間を、痛々しいまでにひたすら回顧し向き合えることが、時間が無駄だったか否かを問える材料となる。
経験ありきと言う気もないのだが、2〜3回経験しておけば、フィードバックする判断材料としては十分だ。
判断材料を獲得した上でさっさと撤退したとき、「時間の無駄だ!」と思う内容が「実は無駄じゃなかったんだ!あれは撤退の狼煙だったんだ、ありがとう!」というプラスに展開される。
毛嫌いの果てに、心底からのお礼が出てくるなんて、素敵な生き方に他ならないよね。
もちろん、チカラの有無に限らずにさっさと撤退して身を守ることも、一つの戦い方ということをお忘れなく。