「下手の考え休むに似たり」とは良く言う。
だが、「休息の取り方が下手くそ」であれば、
頭のなかの考えはツラさでてんやわんやとなり、
「休めども休まず」の繰り返しだろう。
どうにもこうにも不器用なせいでどうしても気楽になれないなら、
考えるより徹底して妄想してしまえばいい。
まずは紙とペンすらいらない。
どこかのビジネス書で見たことのあるようなものばかりだ。
実のところ、お金と実力の構成は、
この程度の「思いつきのような妄想」でしかない。
A型インフルエンザで寝込んだときの話を思い返そう。
10年以上ぶりに39度近くの熱を出し、休息を取る以外になかった。
ふしぶしの痛さは1日半で消えたが、熱は数日続いた。
本当はカラダが発熱で苦しくなるはずが、
なぜだか学校を休める小学生のようにココロが白熱していた。
「すっげえ!こんなに熱出るんだ!」
「これって色々な意味でデトックスのチャンス?心理的にも!」
白熱にうなされた感想は、こんなノーテンキな妄想ばっかりだ。
いわゆる「ランダム刺激」である。
アイディア出しはこれくらいしかやることがない。
繰り返すが、おっくうなら紙とペンすらいらない。
もちろん、必要と感じたらいつでも使えばいい。
もう少し、自分に聞き進めてみる。
これは一種のロールプレイだ。
「インフルエンザで休みだってさ。小学生のときの自分ならどう思う?」
→「やったぜ!」と、ある種の「優越感」を抱くに違いない。
多くの人にとって「むべなるかな」だろう。
遊びをせんとや生まれけむ、サボりをせんとや生まれけむとでも、言い聞かせてボケてしまおう。
ボケることからしか、本音を体現してミッション・ビジョン・バリュー(MVV)にできないのだから。
ただし、インフルエンザにせよ、うつ病にせよ、
難病や大ケガにせよ、場面によるが、
休む以外にどうしようもない時期がある。
「とにかく休め!」いうのが本音ではあるが、
「休むだけなんてさびしい、つかれる。何もやることがない。つのる罪悪感。。。」
から逃げられないこともある。
インフルエンザならまだしも、難病や大ケガや心的ストレスでは、どうしようもない。
ここでは逆転の発想を取ればいい。
どのみち動けないのだから、動けない今しかできないことをやる。
どのみち動けないのだから、他に動けない人が助かる方法がないかを考える。
どのみち動けないけれど、キーボードを叩いたり、スマホで連絡を取るくらいならできる。
どのみち動けないのだから、誰かに助けを求めてしまう。
どのみち動けないのだから、お世話になったあの人にもういちど連絡を取ってみる。
やらない善より、やる偽善である。
この場合の善は、自分のため100%でいい。
自由とは、自分に由来するという意味だ。
偽善と言われても、自分のため100%の善から考えていい。
もっと気楽に、愚にもつかぬ妄想から始めていいのである。
妄想を抱くことに、罪悪感など不要なのだから。
妄想がてら、つらつら書いてみる。
・つらさが少しでも和らぐなら、いくら下品でもかまわないから、何もかも見下してしまえ。何もかも匿名でなら、暴言上等だ。最悪、5chでも4chanでもいいから暴れろ。
・ただし暴力や犯罪や薬物やギャンブルや炎上・素行不良には手を出すな。単純にもったいない。
・それでも暴力や犯罪や薬物やギャンブルや炎上・素行不良に手を出しそうなら、本でもマンガでも何でもいいからバカみたいに読め。
・こんな調子で、思いつくまま書くだけでもネタになる。
・思いつくままだと変化がないから、別な意見や作品の引用を、半ば強引でもいいので折りまぜろ。
・インプットは心を休めると同時に、アウトプットも心を休める。
・詩歌や絵画や映画やアニメや音楽でもいいからジャンジャン触れろ。記事でも絵でも書け。作曲でも演奏でもいい。下手くそだからいい。
・全く興味のない本や音楽や映画や作品に、さも興味のあるフリをして触れて、全く違う自分を演じてしまえ。
・動画でもSNSでもブログでもnoteでもインスタグラムでもいいから、何かを作って、偽名でいいから駄作を多数公開してしまえ。
・どうせ世の中は矛盾ばっかりなんだから、匿名掲示板で何を言われても意に解さず無視しろ。
・こうやって気ままに考えて動いて、アウトプットして気楽になれたぞ。ほれ、何がいけないんだ、説明してみろ!
・科学的根拠が見出せなくとも、その幸運は偶然ではない!と信じてしまえ。
……これくらいのアイデア出しなら、妄想と白熱に任せて、あっと言う間にできる。
そんな中、心の内のアマノジャクが語りかける。
「ヘイ!それでもなお、つらいままで不自由だったらどうするのさ?」
という具合に。
すかさず、
「バカも休み休み言え。」
「頭とカラダはバカになりかかってんだから、休み休みやるためにバカなことをやれ」
「ほれ、できるところからほんの少しだけ適当に、バカやるくらいでちょうどいいだろ?」
「自分で自分をバカだなぁと言えるくらいじゃなければ自由とは言わないぞ」
と反論してみた。
するとアマノジャクは去っていったようだ。
書いて癒されるには、
読んだ人が自分から「書く」という動作をしなければならない。
不器用を自認するなら「読みながら書く」ことを試してもいい。
つらつら書けば、妄想が文となって踊り出す。
妄想は、現実として共有されてしまう。
そのとき、不器用さは「味わい」と呼ばれる。
日々「本音がなければ企画はうまくいきませんよ。逆に言えば本音が出ていればどこかでうまくいきます」と言っているが、これは文字通り「妄想の味わい」だ。
現実解。
それでも、それでもなおつらいのであれば、どうすればいい?
不器用なりに地道に、知的好奇心に任せて知恵や知識を読み進めてしまおう。
生き方など「ゆっくり急げ」でいい。
できることから淡々と愚直にやっている限り、
大なり小なり誰かが落とし物をカバーしてくれる。
それは本の著者やウェブ上の書き物やコンテンツかもしれないし、
今まで関わった人かもしれないが、
妄想している限り、
文物はどこかで必ず味方をしてくれる。
boxcox.net、遠藤武。