プロは、自分の限界を知っている。
大学当時、もともとの専門にしようとした工学系の分野からほど遠い人文科学をあえて選び、
卒論として用いる分野を教育史・教育行政学にしたのだが、
そのとき最も衝撃を受けたのは、
「教育だけでは物事の本質など掴めない」
と、大学で世話になった教授があっさり言い切っていた点だ。
その教授は北米でPhDを取り、教育史の展開を知識人論や高等教育論に昇華していた。
当時はただただ凄さを感じ取るくらいしかなかったが、
データ分析という分野で大枠から詳細まで知り技術開発を経た今となれば、プロほど自分の分野の限界を知ると気づける。
だからこそリベラルアーツの目線で見て分野の限界を突破するのだ。
そう捉えれば「教育だけでは本質はつかめない」は必然的な考え方だと腹落ちできる。
なぜ本質がつかめないのかといえば、
教育語りはともすれば「ただの試験対策サービスの良いお客さん」にとどまるリスクがあり、
洞察もへったくれもない素人レベルで足止めを喰らうためだ。
よく「自分の子供の中学受験対策やその点数」で教育を語るSNSアカウントがある。
この価値観は、あくまで受験産業が提供する教練や答練どまりであって、教養でも専門でもないことに注意が必要だ。
そのような「教育語り人」を知り、たまたま年単位で定点観測する機会があった。
その人は一般に最難関に位置するレベルの中学受験を経て、その中高の期待値通りの大学に進学しているが、
教育や教養や専門に関する観点は「教育産業のお客さん止まり」であり、
「その価値観に毒されちゃうと、その後の経歴や職歴は決して悪くないのに、レベルが中途半端で止まるのね…」と少々がっかりした。
要は、知識層ではない消費者どまりゆえに知行合一がなく、試験対策サービスを買う程度で成長が止まり、小粒になるのだ。
「少々がっかり」とトーンダウンして書いたのは、サービス消費者止まりという実情に想像がついていたからではあるが。
マス層であるサービス消費者は、いくら試験対策で成果を残そうと、それはサービスのコスパの範囲内にとどまり、教育についての認識は小粒にとどまってしまうのである。
本来、人間を自由にするための縛りこそが教育であるはずなのだが。
それゆえ、アカデミックスキルである英語ついても、「試験対策」「英会話」といったフワっとした一般的なものしかボキャブラリーがなく、
「まともに大学や院で学んだり外資企業に行けば、英語でペーパー執筆や議論やプレゼンが当然であり、家庭教育も世界レベルでそこから派生すればいい」
という発想すら持てない、消費者どまりだったのである。
理系文系を問わないリベラルアーツでは常識レベルの話であり、消費者どまりとは根本的にリテラシー不足なのだ。
教育産業への課金にのめり込むのは、教育投資ではなく、消費や教練だというのが事実だ。
ある学者が、そのような形で試験対策ばかりさせられた層を揶揄して「田吾作」と評しており、なるほどと納得した。
自分の大学受験のとき、英数国と社会2科目(地理と世界史)の記述式、ここに理科を含む形で、5教科7科目を対策した。
そのおかげで数学にどっぷり浸れて、受験でもその後でも実績を出せたのだが、確かに受験の空間には「田吾作」と思しき人が多くいた。
これは、幼少期に過ごした地域からも、そのような実情を垣間見たが、まともな知識層は本音では忌避していたことでもある。
大正時代に創立された自由な私立学校が都内にある。そこから突出した知識人が出ている事実とそれ以上に何かを幼少期からうすぼんやり感じ取り、その後に内情を知った。
受験産業にしか目が行かない人は、このような話に一切耳を貸すことはない。
目先の合格実績の数字や偏差値という、マーケティングに釣られる消費者である。
大学受験までの実績を誇る態度は、合格した瞬間に邪魔になると周囲から異口同音に知らされていた。
それはつまり「サービスの消費者止まりになるな」ということだ。
「サービス」という切り口は、重要ではある。
仮に「サービス」について言うなら、その大学名1つに特化した一般受験向けコースを持つ予備校が、
首都圏を中心に昔から複数存在していることが、大学の難易度や価値に対する正直な本音だと言える。
これはとても重要だ。
ただし、これに踊らされるだけのお客さんやミーハーは、消費者で終わる。
自分が受験先や進学先を決める際、これに気づいていたので、
卒業生の動きと活躍度合い、大学の規模や入学選抜形式、入学以降の学びへの真摯さと照らし合わせつつ、
その真逆にある試験対策の価値と価値観と限界をありのまま知った上で、勝ち筋を見定めて決断した。
ニッチな選択肢を取り、教養のチカラで限界やピークが人生にわたって後ろ倒しされるように、腹決めしたのである。
このおかげで、自分が世話になった教授による「教育だけでは本質はつかめない」という言葉とリンクし、認識の限界突破を実感するに至った。
現実解。
光の当て方を変えていくと、限界が見える。
限界が見え、それでも限界を乗り越えようとする知的体力が出るところからが、
プロとしてのスタート地点ということだ。
ちゃんと活躍するには、それだけ逡巡するくらいじゃないと、何も始まらないのである。
boxcox.net、遠藤武。