人は成長すればするほど、基準が高くなる。
合格した大学のレベルや、
大学入学以降の基礎や教養に裏打ちされた学びや、
それらに関連した知的好奇心や専門や職歴や、
インパクトと中身のある実績など、
じわじわと基準が高くなっていく。
社会人になったあとでこれに気づいた場合、
その人が経営者であれば、
「基準の高い側」で「圧倒的な実績を残した人」に敬意を抱き、
共に仕事をして自分を高めていくのが世の常である。
それだけ「基準を高くとる」ことの重大さを腹落ちしており、
一定レベルを超えた人に思慕や尊敬の念があるためだ。
特に経営者として揉まれていると、
レベルの超高い人の肩に乗せてもらい、
そこから大ジャンプしたほうが、
10年かかっても辿り着けない目的地に、
1年ほどであっさり辿り着けると直感的に気づいているのだ。
言うまでもないことだが、
レベルの超高い人とは、とてもニッチである。
単に「高位の役職について出世した」とか「有名企業に勤めていた」は確かに優秀だが全く足りないし、
「大学教授や研究職である」とか「それら全てを束ねて知名度がある」も優秀ではあるが、
それほど単純ではない。
素人でもわかる過去の栄光の範疇や
既存の模範解答の範疇にあるうちは、
さほど基準が高くないのだ。
基準が高いとは、学も実績も両方あり、
目立ちたがりにならずとも影響力のあるアウトプットができ、
かつ自由度もフィーもとても高く、
顧客や協力者に恵まれた状態のことである。
これは孤高の超人とでも言えば良いだろう。
そのレベルでようやく、
基準の高い低いが見えてくるのだ。
この真逆で、
ついうっかり優等生ぶって、
学び方・スキルや実績や執着心が半端なケースや、
猫騙しのようにお手軽に目立つだけで済ませて終わるケースは、
実はあちこちで多発している。
もしこれに「まずい!」とか「その通り!」思えるなら、
その人は伸びる可能性がある。
自分ごととしてわきまえているからだ。
その場合、思い切って自分から基準を高くして、
自分で成長余地を作ってしまえばいい。
私の場合は、少しでも迷ったら、
基準を高くしてしまうほうが成長できて迷いが減るため、
そうやってファイティングポーズ取るようにしている。
あなたはどうだろうか。
現実解。
実のところ、基準を高く取る方がかえってレバレッジを効かせることに集中でき、
自分の内外をフルに使うことに気が向くため、かえって楽になるケースが多い。
天高く見下ろすほうが、水の流れと同じで自然の摂理にかなっているためだ。
追記。
直感的な理屈には明らかに反するが、他力を巻き込むとはこういうことだと覚えておこう。
顧客や協力先より基準が上なのは、プロとして当たり前だもの。
ボックスコックスネット、遠藤武。