自己啓発とは、言葉で知識と行動を整頓することだ。
「気功」「波動」「スピリチュアル」は、行間に入り込んで物事を整頓させる語彙である。
特段興味を持つ必要はないが「言語が創る演出である」という事実を心得ておこう。
現実解。
小学生のときに、内家拳(形意拳)という、
太極拳を徹底して地味にしたようなスタイルの、
古典的な中国武術を習っていた。
内家拳の指導者の著作を、大人になったあとに読んだが、
実体験と合わせて言うと、本質は「呼吸レベルの合理的な身体の使い方」だ。
格闘技としては、足腰から上半身への力の伝わり方を、無駄なく対戦相手に仕向けることだ。
現に幼少期、道場で大人が吹っ飛ばされる状況を見てきたけれど、
要は人間の身体で瞬間的に実現可能な、極めて無駄のない物理現象を、
「発勁」や「気功」と呼んでいるのである。
内家拳とそのまま一緒くたにするつもりはないが、
「波動」「スピリチュアル」といった言葉遣いは、
現象をそのように呼んで演出し、納得を呼んでいるのだ。
自分が生きる上において、
「波動」も「スピリチュアル」には全く無関心であり、
心理学や認知科学を何らかの演出でラッピングした、
ヒエラルキーのある商材も全く無関心だ。
いずれも、科学的なものの見方から言えば、
「何を言っているんだ?」ということになる。
いっぽう、言語化を通じて一定の人々から納得を得ている事実は、
込み入った考えを整頓する上で、言葉の可能性として参考にできる。
言葉そのものを科学に照らして否定するのも、
言葉そのものの独自の概念を重視するのも個人の判断だ。
人が言葉を通じて問題を解決するという事実は、
誰もが直視するメリットがある。
言葉が物事を演出するのなら、
その威力は、演劇にも詩歌にも流行歌にも当てはまる。
スピリチュアルとは、要は演出の話なんだよね。
何でも頭ごなしに否定するより、
シンプルに共通点を探したほうが、
頭を使えてお得ということ。
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遠藤武