ひっかかりがある場合、一番すべきは「同じ画面を見ること」だ。
これはちょうど、一緒に映画や舞台を見ることと同じだと言っていい。
コミュニケーションが上手く行かないのは、単に同じ方向を向いていないだけ。
現実解。
「こんなコト聞いちゃまずいかなあ…」
「同じこと聞いちゃマズいかなあ…」
「そもそも発想がなかった…」
タブー視して次のToDoが出ず、
物事がひっかかってしまうというのは、
もったいないどころか、時間を燃やすことになる。
そんなとき、足りていないのは、
同じ方向にある画面を見つめるという動作だ。
何も、一緒に映画や舞台を見に行くことだけでなく、
言葉遣いを同じものにしたり、身振り手振りをあわせたり、
同じ瞬間で喜怒哀楽をシェアしたり…ということが挙げられる。
要は、相手の脳裏に湧くイメージを、
自分のそれと近づけていくことが論点だ。
例えばベートーベンの交響曲も、
「運命」という呼び名で知られる第5番の冒頭の「ジャジャジャジャーン」や、
第9番の歓喜の歌であれば、クラシック音楽に詳しくなくとも、
あっさりと脳裏にイメージができ、ピンと来るだろう。
他方、単に言葉じりを追って、正論をロジカルに説明するだけでは、
目の前にいる人は退屈になり、あくびが出る。
いかにベートーベンの交響曲がすばらしかろうと、
クラシック音楽ファンではない大多数は、
第5番の冒頭と、第9番の「歓喜の歌」を除けば、脳裏にイメージができない。
「カルロス・クライバー指揮のベト7(交響曲第7番)最高!」
といくら言おうとも、聞いた経験も興味もないのであれば、
100%引っかかってしまうだろうし、ベト7を聞いていても眠くなるだけだ。
ことロジックに関しては、人の本音が吹き込まれ、
話し手ならではのストーリーとして成り立ってこそ、
脳裏にイメージが湧くのである。
眠くなるようなお説教じみたロジックなど、
「聞きたい!」と思う人は、そう多くはないだろう。
少し脱線したとしても、話の本筋についてのイメージが共有できれば、それでいい。
同じ画面を見るために過程であり、必要な脱線だったと言えるから。
boxcox.net、遠藤武。