月別アーカイブ: 2018年9月

(マーケットレポートごっこ)「インフルエンサーの価値」を考えよう。

俗にインフルエンサーと呼ばれている層の大多数は、
「学んだフリ止まりの素人さん」でしかない。

この理由に気づければ、インフルエンサーのマーケットが、
どのような仕組みを抱えて、なぜ叩かれてしまうのかが見渡せる。

「インフルエンサーが大好き」「インフルエンサーが嫌い」
「そもそもインフルエンサーが何なのかがよくわからない」
「インフルエンサーとして行き詰まってきた」
という方々が持つべき視点だ。

始めに、インフルエンサーという層ではない、
「学んでいる素人さんでない人」の条件を考えてみよう。

テクノロジー、経営関連、学問・ごく一部のライセンス職・上級公務員、
音楽・美術、文芸(漫画・アニメ・ゲーム)、芸能、政治……。
(参入が比較的しやすく、かつ報われやすいものから順に並べた。)

大多数が理解しやすい分野の一つまたは複数で、
知的好奇心に響く実績を出していることが挙げられる。

いずれも、既存メディアが丁重に扱う分野だ。
また、YouTuberやニコ生主などは扱うコンテンツが動画のため、
文章を通じて活動するインフルエンサーに含めない。

本題に入ろう。
インフルエンサーが「学んだフリ止まりの素人さん」に過ぎないという点にメスを入れる。

事実を大まかに描写すると、
・ふと素人さんとして書き続けた文章から、アフィリエイト報酬が出た
という、5〜10年以上前に得た成果が、フリーランスとしての飯のタネになっている。
これを「フリーランス事業」として捉えよう。

この「フリーランス事業」のリスクは、
・売上が「SNSを通じた広告収入やコンテンツ課金収入等」だけ
・文章を売るにも関わらず、これらが裏目になり学びと品質が圧倒的に不足している
・商材が「等身大の個人の感想」を書き連ねているだけで、事業としての拡張性がない
とざっくり挙げられる。

上記のリスクが、
・フリーランスとしてのプレゼンス低下を恐れて、炎上マーケティングに走る
・フリーランスとしてのプレゼンス低下を恐れて、何も知らない人を子分にして課金する
・学びの足りなさが裏目に出て、ピボットや新規事業立ち上げが出来ない
・学びの足りなさが裏目に出て、タレントとしての品質(立ち居振る舞い)が粗野である
・新規事業立ち上げ(少額投資等)をしたとしても、学びが足りず元の木阿弥
という実情を引き起こしている。

つまり、どう好意的に見ても、
「あまり学ばない素人さんという属性を継続している」いっぽうで、
インフルエンサー事業単独の事業がどこまで続けられるか、
そもそも果たして事業と呼んでいいものか、
いろいろなところで疑問符が拭えない状況だ。

出来る限りシンプルにまとめると、
・ただの「アフィリエイトを使う素人さんらの集団」だった
・立ち居振る舞いや言動が良いとは言えない
・形のない商材(=コンテンツ)の品質が良いとは言えない
ということだ。

要は、インフルエンサーの実績が、アフィリエイト収入を得た事実しかなく、
ビジネスに必要な「投資対効果」「品質管理」「リスク管理」という、
基本的な視点を欠いていたのである。

同じく「形のない商材」を出す立場として、
メジャーなところでは経営コンサルティングが存在する。

経営コンサルティングやそれと近い領域では、
・セミナー1回あたり5〜10万円の参加費
・月1回の訪問あたり20万円〜の顧問料
という、ざっとみてそれほど安いとは言えないフィーを取っている。

これは、この費用を払うに足る利得が、コンサルティングから得られるからに他ならない。
フォロワーが少数だろうと、このような信頼を特定の層から得て、
経営に資するビジネスがいくらでも成り立つのである。

これと正反対のものとして、
・月1,000〜10,000円のオンラインサロン費用
が、悲しきかな格好のインフルエンサー叩きの材料にされてしまう。
ここまでで書いた通り、この原因は、
単にその費用に見合った利得がない品質の商材だからである。

当のインフルエンサーは「そんなことない!必死でやっている!」と憤慨するかもしれない。

しかし品質に注目すると、インフルエンサーが繰り替すコンテンツの内容は、
既に知識としてシェアされつくしたもので陳腐化しきっているか、
専門家による書籍を買って読むことで上位互換できてしまう。

現状では、インフルエンサーを軽々と上位互換してしまうような、
「プログラミングの面白いサンプルコードをnoteで売る」という流れがある。
インフルエンサーは、新規事業としてこれに喰らい付いてきている様子は無い。

「品質が高く役立つコンテンツを届ける」という観点からすれば、
もはやインフルエンサーは古臭くなってしまっているというのが実態の様子だ。

最後に、個人的に見てみたいインフルエンサーのコンテンツがある。

インフルエンサーの財務諸表の公開だ。

少なくとも、炎上覚悟で面白おかしく過ごしているならば、
個人であれ、フリーランスの延長の法人であれ、
財務諸表を公開してみるといい。

大づかみに言うと、ディスクロージャーは、
ビジネスで信用を高めるための術である。

「炎上でも何でも、目立ったものが勝って信頼される!」

そのような作り付けの個人ビジネスであるなら、
財務状況を公開し、その内容についてのツッコミを待つことで、
新たな話題のタネを広く仕込むことができる。

個人が炎上しようと、事業の炎上が明るみになろうと、
「学んだフリ止まりの素人さん」を脱却する覚悟があるならば、
教師(あるいは反面教師)としての話題性に、新たに火をつけることを期待したい。

「大学は意味ないから行かなくて良い」論を疑ってみよう。

結論から言うと、
「大卒は的確に狙って取ったほうがいい」
「大卒そのものではなく、鍛えることができる知的生産能力が大切」
「知的生産能力を鍛えられないなら、さっさと中退して鍛えられる場所に移るべき」
という見解です。このスタンスは、自分の中では長らく変わりません。

「大学は意味ないから行かなくていいよ」という論について、
以下のツイートを納得して上書き消去してくれるような、
具体的で合理的な視点が見つからないのも事実です。

もっとも「どこでもいいから大学に行けばいいか?」と聞かれればそうではなく、
自分の望みを狙って叶える中で、最高のレベルをターゲットにすべきだと考えます。
それは単に、投資対効果(ROI)が大きいという点に尽きます。

周りのモチベーションだとか、実績や能力がある教授だとかを含め、
「自分は極めて優秀だと思っていたけれど、世代問わず更に優秀な人がゴロゴロいた」
という経験は、国内外問わず経ておくと、後々まで成長の機会を作ることができます。

また、少人数で知的生産をゴリゴリと行うことが当たり前の空間にいれば、
(例:殺人的な量の演習や議論やペーパー執筆やプレゼンやリーディングやリサーチ)
その後に「あれ?ビジネスでやる内容ってアカデミックスキルを少し薄めた程度じゃないか!」
と気づけてしまいます。これがポイントです。

大量に読んで調べ、簡潔に知見をレポーティングと口頭で発表し続けることは、
代表的な領域だとコンサルティングファームで求められます。
実は大学で鍛える知的生産のスキルは、そのままビジネスに活かせるわけですね。

日本語圏の大学には「大教室講義ばかり、試験は過去問+ノート+教科書まとめ…でクリアできる」という状況があります。
このような大雑把な昔ながらの仕組みは、アカデミックスキルを鍛えるという観点からは賛否あるでしょう。
私としては、わざわざ時間とお金を投じるなら、少しでも知的生産に関わる必要が出てくる「少人数で鍛えられる空間」を優先すべきと考えます。
自分の見解を明確に知見に落とし込む経験、つまり知的生産を行う経験は、全てに応用ができます。

他方、大人数で中だるみした場に辟易した方々が、おしなべて大学全てが大人数の中だるみだと誤解し、
「大学なんか行かなくてもいい」と言い放ってしまっているとしたら、残念極まりない話です。

せめて「少人数でアカデミックスキルを重視する場を優先すべき」という反省に立った発言をするなら、新興宗教化せずに済むのですが。

この残念な事実について、何が残念で何が問題なのかを具体化するために、以下のように書かせて頂きました。

ウェブでなんでも集められることの面白さは、情報を消費することではなく、
自分に投資するための知識が集められることにあります。
(ツイッターを雑誌代わりにしているのはそのためです。)

情報を一方的に消費させられるだけでは、フェイクニュースに翻弄される人を増やしてしまう以外に何も残りません。

まとめると、
「トラッキングできる知識を使って生きる術を得るためにも、大学での学びは大切だよ」

「それは課金式の情報の消費ではなく、知的資産を得るための投資なんだよ」
「行かなくていいと言い出す層(あまり学んでいない様子の大卒)の売る情報は、アカデミックな知的資産で全て上書き消去出来てしまうんだよ」
という話でした。

情報を消費するのではなく、情報に投資して知的生産を狙わんとするなら、
このような安直な謳い文句に流されることはありえないんだよね。

「こっそりやる」の扱い方

何かを「こっそりやる」というのは、
それだけでものすごく大きな楽しみだ。

学校や仕事を早々にサボって読書や物書きにふけるもよし、
隠れ家のような喫茶店にこもって外の喧騒を眺めるもよし。

幼少期にこんな喫茶店や鉄道模型にドキドキしていたけれども、
これは大きな流れとひっそりこっそりとした佇まいの両方が見えて、
大多数から外れた想像力を思いっきりかきたてられたことに他ならない。

「こっそりやる」ことと似た感情をここに抱いていたけれども、
これは大多数の流れと違うことを楽しんでいる状況を、
頭のてっぺんから爪先まで実感していたということだ。

目に見えないためにこっそりしているだけで、
これは実は思いっきり堂々とした感覚なんだよね。

「職位」の疑い方

ホラクラシーやリモートワークが当たり前の時代になり、

移籍のごとき転職が頻繁に起こり、特に技術職界隈では新卒フリーランスという言葉まで出て来ている。
そんな今となっては、総合職・一般職や、
あるいはマネージャーとスタッフといった職位について、
古臭く合理性を感じないという感想を抱くのも無理はない。
組織内と組織外が混ざり合うほどジョブマーケットの流動性が高まると、
職位がそのまま能力やモチベーションを反映しないとすぐバレてしまうためだ。
具体的には、
・マネージャーが運営巧者だからマネージャーに就いているのではない。
・経営トップが経営巧者だから経営者に就いているのではない。
という事実がとことんバレてしまう。
閉鎖的な内部が、市場という外部に晒されると、
創業者一家だからとか、年功序列で就任したとか、
あるいは情実で得たに過ぎないポジションだという背景が、
不合理として明るみになるのである
もっとも、情実による名指しは信頼の表れという面が多分にあるので、
不合理でない(ように見える)限りは、それがそのまま成果を作ってしまうことも多々ある。
経営者の職位にはこれが顕著だ。
他方でぶっちゃけてしまうと、権限が中途半端な中間管理職であれば、
情実の介入はポリティクスの始まりとなり、必ずしも経営直結の成果にならない。
この傾向に少しでも感づいている優秀な層ほど、
「経営上の意思決定に関われないんじゃプラスにならない」
と見切りをつけて、さっさと上を狙える側に抜け出してしまう。
コンサルティングファームに行きたがる新卒が増えているのは、
高待遇もさることながら、経験と職位が一致する上に、
自分なりの知的工夫をそのまま価値にする環境を得られるからだ。
もはや、騙し騙しヒエラルキーに押し込む発想を取り去ったほうがいい。
読書やリサーチ好きの若手が、アカデミックスキルや懐疑心をそのまま活かせば、
ヒエラルキーに押し込められた中間管理職は猿芝居しかできないと読み取れてしまうんだよね。

「風景」の扱い方

自分が日々見る風景は、

それが窓からの風景であれ、

心象風景であれ、美術品や音楽作品に込められたものであれ、
美味しいものを味わったときの感覚であれ、

自分で維持しないことには何も始まらない。
ここで大切なのは、見たいものや見るべきものを蒐集して世界を広げることだ。
何が見たいのか、何を見るべきか、という問いは、学びで蒐集する知識に応じて切り拓かれていく。
嫌なのに無理して見させられる趣味の悪い風景や、
無知が原因で留まらせられる退屈な風景や、
ビジネスや人間関係に付帯してくる押し付けの風景など、
精神的にたまったものではない。
学んだり、実績や利益を出したり、自分を成長させていくことを、
「これは自由な風景の蒐集のためなんだよ」と言ってみるくらいでちょうどいいんだよね。

「実名と非実名」の疑い方

非実名がいやなら、実名を出して活動する層をひいきにしよう。

実名を出しながら素行の悪い層、例えば芸人や、
ウェブでの炎上マーケティング屋さんや、
SNSで堂々と先行研究を無視するサラリーマン程度でしかない研究者を、
とにかくオピニオンリーダーとして祭り上げよう。

その上で、非実名の人たちがトラッキング可能な有益な知識を出していたら、
とにかく内容は無視して、次から次へと弾圧すればいい。

と、これじゃあまるで焚書坑儒だよね。
非実名で叩くことのカッコ悪さばかりが取り沙汰されるけれど、
実名で同様に叩くことや先行研究を無視することのカッコ悪さや背景の分析は、
話題にされることがほとんどない。

“「誰が言ったか」より「何を言ったか」が大事だ”
そのように言われて久しいが、「何を言ったか」という内容を、
的確にトラッキング可能にするには、「誰が言ったか」を明示する以外にない。
この「トラッキングできる知識」は、アカデミックスキルの考え方に他ならない。

他方、このような知識を基礎としながらも、
“未だ表現されていないことを表現し切る、胆力と繊細さと着想”
を、独自に模索することもまた。

非実名をとことん貫き続けようとも、
このように独自の切り口で自由に発言していくことは、
実はいくらでも可能なんだよね。

何らかの理由で名前を出せない人が有益な知見を出していたとしても、
それがパージされてしまうのはあまりにももったいない。

「ノンポリ」「無党派」「無宗教」の本音

これは単に、文物や科学に触れて来ていないというだけだ。

もし「ノンポリ」「無党派」「無宗教」を消極的に自覚していて、
かつ「学ばなかった立場」を少しでも正当化していたとしたら、
大慌てで復習くらいはしておいたほうがいい。

最低でも、義務教育レベルから高校レベルをカバーしよう。
(公立中学校で成績が下半分以下だった層は、特に警戒しておこう。)

文物や科学を材料に、想像力を巡らせる余裕を持つことで、
思わぬところで話題や流れが広がっていく。
格別のチャンスをつかむきっかけを得られたら、文字通り儲けものだ。

何も意見を持たないとか、大多数と同じとか、
「普通」という言葉に逃げるということは、
スモールトークするための知識すら持っていないことと同じなんだよね。

「教育格差」の疑い方 その2

教育格差によるコンプレックスを超えるには、
格差を素直に認めた上で、出来るだけ全体像や共通点を見定めるといい。

医師も弁護士も、経済的独立を目指す人もいれば、
明らかにサラリーマン気質の人もいる(いわんや研究職をや)。
これはライセンスや学歴を前提としない勤め人の世界と変わらない。

経歴や学歴や資格が重要でないと言うつもりはない。
経歴のスナップショットだけで良し悪しを決めつけ、
「自分は大変だ」「あの人とは違うんだ」「自分だけが大変な思いをしているんだ」
という理由付けをしてしまうことは、
自分から格差を作って負けに行っているというだけだ。

どのような教育水準の階層内でも構造は似通っており、
「大変な思いをしている層」と「楽しんでいる層」がいる。
こうなってくると、本質は「知識を集めて楽しめるか否か」くらいしか残らない。
それを素直に認めるだけでいいんだよね。

「福利厚生」の疑い方

飲み会や社員旅行なんて福利厚生でも何でもないと、とっくにバレている。

優秀な人であればあるほど、これに気付きやすい。

そもそも、ラポール(相互信頼)を築けていないのに寄り集まって食事するなんて、全く時間の無駄だ。
本当にまともな関係があるのなら、辞めたあとにいつでもまた集まれる。

集団行動したがる層ほど、みんなで
行動すればどうにかなると勘違いして、
それが次から次へと裏目に出てしまうんだよね。
経営者や組織のトップが集団行動を福利厚生と偽ってお茶を濁すのは、
知性のない者同士だけで通用するごまかしだ。
そんなことをしているヒマがあるのなら、システムで余計な手間を省いて、
報酬とポジションの厚遇で応えるほうが、よっぽど福利厚生に資するんだよね。

「言い訳」の扱い方

何かにつけて言い訳をする状態って、

材料不足に気づけず自分の頭だけで考えようとしているだけなんだよね。

まずは材料を掘り起こして、「材料不足からの抜け出し」に取り掛かろう。
行動したいなら、行動したい内容をそのまま丸パクりすればいい。
誰かに何かを言われそうだと思うのなら、実際に言われたらどうなるかを具体的に洗い出せばいい。
後戻りが出来ないと感じるなら、後戻りできるドアを残したまま動けばいい。
勇気がないと思うのなら、リスクを怖がる堅実さを認めればいい。
このままじゃまずいと思うのなら、立ち止まることのリスクを生々しく描写すればいい。
丸パクりではフィットしないなら、複数の事例を納得行く形で組み合わせればいい。

この流れを、何度でも少しずつでも(あるいは大胆に)繰り返せばいい。
繰り返しに飽きたら、上の流れを自分なりに書き換えてしまえばいい。
このように事例を集めて実験することに徹し、言い訳のほうから止まるようにしていけば建設的だ。
ここまで知っても言い訳が出るとしたら、飽きるまで言い訳で満たされてみるのも一つの方法だ。

飽きるまで言い訳に満たされながらも、
気持ちよく寝ているときや、美味しく食べているときや、
ほんの少しでも楽しいと思える瞬間にしっかり着目しよう。

そのときの感覚だけは、たとえ短かろうとも言い訳に満たされようがない。

この感覚を「材料不足からの抜け出し」とリンクさせてしまえば儲け物なんだよね。